船の民
そもそも生活上で船との付き合いが長い上、共和国のシーレーンを担うなどの経験を経て
一部の傑出した船乗りをさして船の民というようになった。
船の民はある面で非常に緩い。
港にいるときに嵐が来ると知れば、腕に自負があろうがなかろうが、
というより、腕に自負があるものほど「まあ無理していく事も無いか」と言い出す。
よっぽどの事情があれば別だが、なるべくなら危険を冒さないというのが彼らのスタンスだ。
海はなめたら死ぬ。
嵐の真ん中で船かクルーか、どちらかが根を上げればその時待っているのは共倒れである。
もちろんどうしてもという事情があればスコールの中だろうが嵐の中だろうがつっきる事も厭わないが
(それにしたってどこか冷めた目で限界というのを常に見極めようとするのだが)、
なるべくなら、危険は侵したくないというのが本音だった。
なめたら死ぬというのは嘘ではない。
彼らは船も自分の腕にも自負はあるが、過信がそのまま死につながるという事も知っている。
それがこうじて、船を操る者にその自覚がないのは罪だとすら思う所がある。
まあそういう時ですら、「そういう人を選んでしまった自分も間抜けだったなぁ」
と思えるのがさらに一枚上の船乗りでもある。
もっとも、その手合いは大抵、間抜けだなあと思った時には手を打ち始めているのだが。
そういう点を言えば、彼らにとってパートナーといえる相手は無限に広い。
そもそも船というのは一人では動かせないのだから当然だった。
クルーも、クルーを支えてくれる者も、その全部がパートナーと言えた。
その中にはもちろん、船の守り神としてまつられた猫や、同じクルーであるところの猫士も含まれる。
連帯感を作る一環として、猫士をパートナーとするときは猫耳猫尻尾をつける事もある。
また、猫妖精を着用するときは必ず猫耳猫しっぽをつける。
知らない人が見れば首を傾げる恰好だが、それはそれで、意味のあることだ。
自分たちが一人では立ちゆかないのは当たり前だとも理解していたし、
それ故に、自分はかならず誰かを支えているのだという自覚がある。
船の民の心には、『船』という在り方が強く刻み込まれている。
それは場であり、パートナーである。
それは一人では立ちゆかないし、けれど一人ずつに意味があるという自覚である。
それは環であり、それが、最終的には船を動かすのだという意識だった。